鹿児島県上野原縄文の森 (公財) 鹿児島県文化振興財団上野原縄文の森 埋蔵文化財情報データベース 鹿児島県立埋蔵文化財センター (公財) 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター
MENU

公益財団法人 鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター

鹿児島県上野原縄文の森 HOME 公財 鹿児島県文化振興財団鹿児島県上野原縄文の森 埋蔵文化財情報データベース 鹿児島県立埋蔵文化財センター 公財 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター

カテゴリー: クローズアップ

令和6年度刊行報告書のお知らせ

令和6年度は,以下5遺跡の報告書を刊行しました。

※ 報告書名をクリックすると,PDF版を閲覧することができます。

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(57)「玉利遺跡」
眞邉彩

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(58)「山借シ遺跡」
小野恭一

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(59)「新城跡」
弓場隆章・北園和代・川口雅之

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(60)「諏訪ノ前遺跡」
松山初音・平嶺浩人・北園和代・川口雅之

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(61)「北山遺跡2」
辻明啓・山川正樹・上床真

玉利遺跡【長頸壺】
新城跡【青磁碗】
山借シ遺跡【骨・陶磁器】
諏訪ノ前遺跡【トイレ遺跡】
北山遺跡【政所式遺跡】

野首遺跡の発掘調査成果速報(令和5・6年度発掘)

野首遺跡は,志布志湾にそそぐ前川沿いにある,河岸段丘(かがんだんきゅう)上に位置しています。旧石器時代,縄文時代早期・中期・後期~晩期,古墳時代,古代,中世からなる複合遺跡です。
縄文時代早期の地層から,85基の集石遺構(調理施設の跡)が検出され,当時の生活を想像させます。また,古墳時代の竪穴建物跡(たてあなたてものあと)や中世の土坑墓(どこうぼ),時期が定かでない落とし穴も見つかっています。このほかに,古代の土錘(どすい,漁網のおもり)や中世の輸入陶器なども出土しました。

集石遺構(縄文時代早期)
集石遺構(縄文時代早期)
竪穴建物跡(古墳時代)
竪穴建物跡(古墳時代)
土錘(古代)
土錘(古代)
四耳壺(中世)
四耳壺(中世)

南水ヶ迫B遺跡の発掘調査成果速報(令和5・6年度発掘)

南水ヶ迫B遺跡は, 志布志湾に向かって流れる前川の左岸,標高約50mのシラス台地の上にあります。
令和5年度からの発掘調査によって,主に旧石器時代から中世の遺構や遺物が発見されました。遺構は,中世のころ使われたと考えられる古道(帯状硬化面(こうかめん))や,縄文時代の早期の調理施設と考えられている集石(しゅうせき)遺構,連結土坑(れんけつどこう)などが見つかりました。遺物は,旧石器時代の石器や,縄文時代の土器や石器,中世の陶磁器などが出土しました。南水ヶ迫B遺跡からは,大昔から繰り返された人々の暮らしの痕跡(こんせき)が見つかっています。

古道(帯状硬化面)検出状況(中世)
古道(帯状硬化面)検出状況(中世)
使用痕のある剥片(旧石器時代)
使用痕のある剥片(旧石器時代)
石坂式土器(縄文時代早期)
石坂式土器(縄文時代早期)
南水ヶ迫B遺跡空撮
南水ヶ迫B遺跡空撮

新城跡の発掘調査成果概要(令和4・5年度発掘)

新城跡(しんじょうあと)は,阿久根市山下に所在し,高松川左岸の標高約35mの台地上に位置しています。中世莫祢(あくね)氏の本拠地である愛宕(あたご)山(莫祢城)西麓の台地上に点在する山城のひとつです。
西台地部では,通路跡と大型の土坑で構成される,南九州では初めての発見となる形状の虎口状遺構(入口)が検出されました。また,中世後半(15世紀後半~16世紀代)の遺構・遺物が多く見つかりました。
戦国時代,莫祢氏が領民の居住する集落を守るために築き,重要な役割を果たしたと考えられます。

新城跡遠景
新城跡遠景
莫祢城と新城跡
莫祢城と新城跡
新城跡西台地の遺構群
新城跡西台地の遺構群
虎口状遺構
虎口状遺構(東より)

諏訪ノ前遺跡の発掘調査成果概要(令和5年度発掘)

諏訪ノ前(すわのまえ)遺跡は,阿久根市波留(はる)に所在し,高松川左岸の台地上から緩やかに下る斜面上に位置します。遺跡の近くには南方(みなみかた)神社があり,神社へ向かって下っていく地形となっています。
14世紀~15世紀の溝跡や炉跡,住居跡のほか,県内では,科学分析のもと裏打ちされた初めてとなるトイレ跡が確認されました。また,輸入陶磁器や土師質及び瓦質の擂鉢(すりばち),火鉢(ひばち)などの生活用具のほか,五輪塔の水輪(すいりん)や懸仏(かけぼとけ)の本尊が出土しました。

トイレ跡の断面
トイレ跡の断面
炉跡
炉跡
空撮
空撮
懸仏の本尊
懸仏の本尊

北山遺跡の発掘調査成果概要(令和2~5年度発掘)

北山(きたやま)遺跡は,阿久根市山下・波留(はる)の標高約35mの台地上に位置します。周辺は,古代の英祢(あくね)駅や,東側の愛宕山に中世莫祢(あくね)氏の本拠地・莫祢城跡が置かれるなど,古代から中世において重要な役割を果たした場所です。
調査区内では,縄文時代から近世の遺構・遺物を確認しました。縄文時代早期では,集石や土坑に伴う約1万年前の政所(まどころ)式土器が出土し,他地域との交流が窺えます。中世は,溝状遺構が複数確認され,土地区画を伴う大規模な開発が想定されます。中世後半から近世前半にかけては,製鉄炉4基など,製鉄関連遺構を確認しました。近世における出土陶磁器は, 17世紀後半~18世紀前半の陶磁器が主体を占め在地系陶器に加え,肥前系の陶器が多く見られるのが特徴です。

溝状遺構1号(薬研堀)
溝状遺構1号(薬研堀)
黒色土器(中世)
黒色土器(中世)
政所式土器(縄文時代)
政所式土器(縄文時代)
製鉄関連遺構(中世~近世)
製鉄関連遺構(中世~近世)

玉利遺跡の発掘調査成果概要(令和5年度発掘)

玉利(たまり)遺跡は,指宿市街地の北側に位置する,弥生時代の終わり頃を中心とする遺跡です。指宿地域に特徴的な色調をもつ甕形(かめがた)や壺形(つぼがた)の土器,石庖丁(いしぼうちょう)や軽石製品が出土しました。地層では,厚く堆積した開聞岳の噴出物も確認されました。
また,土器に残るススや圧痕(植物や生き物の痕),石器の分析から,当時の人々が利用したアワやイネ,アズキなどの植物,コクゾウムシやハエ類などの害虫の痕跡も見つかりました。当時の人々の植物利用をうかがい知ることができます。

石庖丁
石庖丁
甕形土器
甕形土器
鉢形土器
鉢形土器
開聞岳の噴出物の堆積層
開聞岳の噴出物の堆積層

山借シ遺跡の発掘調査成果概要(令和5年度発掘)

山借シ(やまかし)遺跡は, 奄美群島の喜界島(喜界町川嶺(かわみね))にある集落遺跡です。令和5年度に行った発掘調査によって,14世紀~16世紀頃の遺構や遺物が発見されました。
溝跡からは,当時の人々が継続的に廃棄したと考えられる青磁や白磁などの中国産陶磁器,動物の骨が大量に出土しました。出土した動物の歯を科学分析したところ,ウマや一部のウシに島外から連れてこられた個体がいることが分かりました。
また,景徳鎮窯(けいとくちんよう)系の瑠璃釉鉢(るりゆうはち)の破片が,島内で初めて確認されました。

 

中世の溝跡
中世の溝跡
ウシの骨の出土状況
ウシの骨の出土状況
瑠璃釉鉢の破片
瑠璃釉鉢の破片

約700年前のトイレを南九州で初確認

公益財団法人鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センターが令和5年度に発掘調査を行った諏訪ノ前遺跡(阿久根市)で,約700年前のトイレの遺構を確認しました。

諏訪ノ前遺跡は,阿久根市の標高34mのシラス台地上に立地し,発掘調査では,14世紀~16世紀(鎌倉時代~安土桃山時代)の集落跡が確認されています。

発掘調査では,直径約1.6m,深さ1~1.3mの円形土坑(穴)が6基確認され,内部から植物の種が検出されました。4基について土壌の寄生虫卵分析等を行ったところ,2基の土坑で回虫卵・鞭虫卵のほか,アブラナ科,ソバ属の花粉,ヤマモモの種,貝の蓋などが確認されました。

回虫・鞭虫は,寄生虫の卵が付着した生野菜を食べることによって感染します。寄生虫卵や食用植物の花粉が高濃度で検出された土は,糞便の堆積層と考えられます。

諏訪ノ前遺跡の円形土坑6基は14世紀(鎌倉時代~室町時代)のトイレであったことが判明し,これは,南九州において科学分析によってトイレ遺構と認定できた初めての事例となりました。

また,土壌分析から,当時の人々は寄生虫卵が付着した野菜のほか,コメ,ソバ,ゴマなどを食していたことが判明しました。

今回確認されたトイレ遺構は,鎌倉時代から室町時代におけるトイレの様子や食生活,衛生環境を知る上で重要です。

 

 

【北山遺跡1(南九州西回り自動車道建設)】報告書番号(51) ~その5~

鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センターでは,令和4年度に4冊の発掘調査報告書を刊行しました。鹿児島県立埋蔵文化財センターのホームページに掲載されていますのでご覧ください。これらの報告書の中から,注目すべき成果や今後の研究課題などを紹介したいと思います。第6回は,公益財団法人鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書(51)の北山遺跡1~その5~の莫禰(あくね・阿久根)氏編です。

 

【北山遺跡1(南九州西回り自動車道建設)】報告書番号(51) ~その5~

北山遺跡18~39区で検出された中世の遺物や遺構が,13~16世紀に該当することを確認したところで,この地を治めていたとされる莫禰(あくね・阿久根)氏について,現在明らかになっていることを中心に見ていくことにしましょう。

莫禰氏の初代は,平安時代おわりの12世紀中頃に莫禰院司(いんじ:現在の市町村長に相当)となった神崎太郎成兼が,莫禰氏と称したことが始まりだと言われています。平家(へいけ)の下にあり,夫人は薩摩川内市にある新田神社の権(ごん:役職名の前に付く)執印(しゅういん:役職名から姓に引き継がれた)氏の娘のようです。阿久根中学校南側に賀喜(がき)城がつくられたのもこの頃とされます。この時期の遺物は,18~39区ではほとんど出土していませんので,賀喜城もしくは40区より東側に拠点があった可能性もあります。2代成秀は平安時代末期に活躍したようですが,詳細は不明です。

3代成光は鎌倉幕府の御家人(ごけにん:鎌倉殿の家臣)となり,建久8(1197)年の『薩摩国図田帳(さつまのくにずでんちょう)』に記録されています。4代成綱も莫禰院司ですが,詳細は不明です。3~4代の頃,愛宕(あたご)山に阿久根城をつくったと言われています。賀喜城下の海が次第に土砂で埋まって,荷揚げに支障が出てきたからとも言われています。今回報告した地点と遺物の年代に近づいてきました。

5代成友の時,山門院(やまといん:現在の出水市野田町や高尾野町江内周辺)の折田,多田(現在は阿久根市折多小学校区)や高江郷(たかえごう:現在の薩摩川内市高江小学校区周辺)の長崎や寄田を領地としているようです。この頃から6代にかけて,諏訪ノ前遺跡近くの諏訪(南方)神社が高江郷長崎から勧請(かんじょう:分霊を移すこと)されたようです。

6代成忠(貞),7代成重は莫禰郡司となっています。元亨3(1323)年に鎌倉幕府の使者として周辺領主の土地訴訟(そしょう)を調停(ちょうてい)したり,建武4(1337)年には薩摩国,大隅国,越前国へ出兵した記録もあります。14世紀代の出土遺物は,この頃のものと考えられます。

しかし,6代の晩年から8代成村の頃,領地の減封(げんぽう:領地の一部を削減されること)を受け,島津氏に従うようになります。北山遺跡18~39区で,15世紀以降に遺構が少なくなることと関係している可能性があります。

9代良忠になると,出水に拠点をもつ薩州(さっしゅう)島津家の家老(かろう:家臣の内,最も重要な職)となり,莫禰姓から阿久根姓を名のるようになります。10代良守,11代良速,12代良正,13代良有,14代良照と阿久根地頭(じとう:在地の領主)とともに薩州島津家の家老職を務めました。

12代良正は薩州島津家家老として島津本家となる忠良と争います。また,天文16(1547)年に諏訪(南方)神社を改修し,永禄(1558~)年間には新城に居城したことが知られています。山下小学校近くに「莫禰氏供養塔」があり,遠矢地区には,12代良正の法名が刻まれた石塔の一部が残っています。

14代良照の時,豊臣秀吉が九州征伐を行った後,朝鮮出兵の一件で秀吉の怒りをかい薩州島津家は滅びます。そして,文禄2(1593)年に薩州島津家の家老であった阿久根氏も離散することになりました。北山遺跡18~39区で,16世紀代を最後に遺物や遺構がほとんどみられなくなることと重なるようです。

 

阿久根市域には12~16世紀にかけての古戦場跡や古城跡,また当時あった神社や寺院跡などが多く残っています。さらに,ポルトガル王家の紋章が入った「阿久根砲」が阿久根市浜町の海岸で発見されたり,永禄3(1560)年に入港したポルトガル人船長の墓と伝わる「とっぽどんの墓」などがあります。国内だけでなく,世界の海とつながっていた当時の阿久根の様相がうかがえます。

北山遺跡と諏訪ノ前遺跡の整理作業は,今後も続きます。遺跡周辺だけでなく,幅広い視点で報告書をまとめていきたいと思います。新たな情報がありましたら,ご教示ください。

 

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(51)「北山遺跡1」

参考文献

阿久根市誌編さん委員会 1974 『阿久根市誌』 阿久根市

藤崎琢郎 2024 「鎌倉・室町時代における莫禰(阿久根)一族と阿久根・川内地方」 薩摩川内郷土史研究会資料